コラム

「下山の思想」に寄せて

昨年(平成23年)の12月に五木寛之さんの「下山の思想」という本が出るということで、早速読んでみた。

大変面白かった。

私なりに、「下山の思想」から感じたことがある。
太平洋戦争で打ちのめされた日本が経済大国になり、バブルの崩壊を契機として凋落しつつある。即ち、頂点を極めた日本が下山を始めた。どのくらい下山したのかは判らないが、下山して平地に戻ったなら、そこで再び山に登る計画をして登り始める。しかし、目指すは最高峰である必要はない。
というようなことも書いてあったように思う。
私は、サンフランシスコ講和条約に調印した年に生を受けた。幼いころから、両親、祖父母、その他の大人から、太平洋戦時中のことを事ある毎に聞いて育った。小学校にあがると学校給食が始まり、私はおいしいと思ったのだが、毎日脱脂粉乳を溶いたミルクを飲まされた。当時は安かった鯨肉の竜田揚げ(懐かしいメニューだ。)もよく出された。パンも今から考えると塩味の聞いただけのコッペパンが主食だった。給食室には給食のおばさんが大きな鍋で私たちが食する総菜や汁物を作っており、給食室の横には脱脂粉乳の詰まった紙製の大きなドラム缶ほどある入れ物が置いてあった。
毎日出される給食は、一回も残すことはなかった。
洋服も、ズボンがすり切れると、母親が手縫い或いはミシン(当然足踏み)で穴を繕い、それを着て学校に通った。風呂も毎日ではなく、夏でも1週間に3回程度ではなかったか。
遊びといえば、近くの小川の辺に隠れ家を作って、日柄一日そこで過ごしたり、父親の自転車を拝借しては小学校の校庭でレースのまねごとをしたり、竹を切って釣り竿にしたり、ビー玉、メンコ、缶蹴りなどなどだった。
現代社会の子供たちの遊びといえば、若干趣が違うのではないかと思う。
私は、決して昔は良かったなどという懐古趣味を言おうとしているのではない。
現在の子供たちが仮にゲームを失ったとしたらどうなるのだろうかと思うのだ。
それは、携帯や今流行のスマートフォンというものがなくなったら、若者たちはどうなるのか?
そういう私も携帯を使い、スマートフォンを使い、極めて重宝している。
しかし、私は、家に電話のない生活も経験しているし、テレビのない生活も実際に経験している。
それらを失っても、不便には感じるだろうが、それ以上のものは感じない自信はある。
物心がついた年齢で、携帯が当たり前のように与えられた人たちはどうだろうか?と考えるのである。携帯が当たり前のようになったときに、携帯を見るのを忘れたとかいう問題と、それが全くなくなったときの問題を同じに考えることはできない。携帯を2台持ってまで自分の通信世界を作ろうとしていた人が、それを全部奪われたとしたらどうだろう。
或いは、ゲーム機が全く使えなくなったら、今の子供たちはどうするのか?
余計な心配かもしれない。
しかし、携帯、ゲームがなくなったとき、それに替わる知恵は持っているのだろうか?
私より前に生まれた人たちが持っている生きるうえに必要な知恵の量は私の比ではない。
そして、私たちは、今ほど情報が溢れかえっていない状況下において、先人から「お小言」とも思われるような「昔話」を聞かされた。
現代社会は、そのような先人からの生の声を聞かなくても、インターネット或いはマスメディアにより情報が入ることになっている。
ここで考えなくてはならないのは、先人からの「お小言」と現代社会での情報が質的に同じかということだ。
それを決する基準は、人が生きるうえでの知恵になっているのかどうかである。
頭でっかちの情報ではない。人が生きるうえでの情報だ。
バブルの崩壊後に物心がついた人たちは、いわば日本が下山にかかったときに育った。
しかし、下山にかかったときとはいえ、ITの技術は極めて進化しており、いわゆる昭和30年代の高度成長期にもなかったもの、携帯、パソコン、ゲーム、良質の家(冷暖房完備、シャワー付、その他いっぱい)、各自に割り当てられた自動車が当然となっている。
それらがなくなったとき、どうなるのか?
今の若者も大丈夫だろう。しかし、自ら体験していないことについて、「お小言」とも思える先人の知恵に耳を貸さなかったらどうだろう。山を登ってきた人の労力や登り方などを理解しないまま、下山することは危険きわまりないともいえる。それより、急な坂道の下り方を知らず、足を痛めたり、スピードを出しすぎたりして大けがをすることもある。それを防ぐ途は、山を登ってきた人から「この山はどんな坂道があるのでしょう?」と聞き、少なくとも山全体のイメージを描くことが必要だ。
現代社会に生きる若者が賢明で、先人の知恵を継承しているものであって欲しいと思う。
私は、現在を謳歌している脳天気な人間の一人だ。しかし、自分の生まれた時代の不便さに戻っても、絶望はしないし、それはそれで良いとも思う。
「良い時代に暮らした者が何を言う」との誹りは受けよう。しかし、私は、先人から炭焼き、薪割り、その他サバイバルのための知恵を教えてもらった。そういう意味でも良い時代に育ったかもしれない。
下り坂がどのようなものか判らず、迷走しているように見える若者はかわいそうだ。
もっと、先人の意見に虚心短観に耳を傾けると、その不安は、少しは和らぐかもしれない。