学生時代、サッカー部に所属していた。当時は、若干強かったこともあり、全国大会の経験もさせてもらった。日本代表がオリンピックで銅メダルを取ったりもしたものの、当時のサッカーは今よりマイナーなスポーツだった。
それから40年を経た今、サッカーはどうなったのだろう?メジャーなスポーツになったのだろうか?
長野県でも、私の住んでいる松本市からは、松本山雅クラブが今年からJ2に昇格し、長野市ではパルセイロが去年(H23)JFLで好成績を残した。
野球界では年寄りによる縄張り争いが絶えず新聞紙上を賑わし、ドロドロとした世界を呈しているが、ダルビッシュが大リーグに入ることになり、その報酬は6年間で42億円ということらしい。また、野球界のストーブリーグの話題は、まず、契約更改の話だ。その年に活躍するとすぐに年俸は上がり1億円プレーヤーも珍しくはない。それに対して、サッカーで年俸の話題があがったことはない。報酬では圧倒的に野球の勝ちだ。
それでは、国民的に見て、野球とサッカーとはどちらが多くの人に好まれているのだろうか?それは判らない。
欧州、南米、東南アジア、アフリカのどこを見ても野球の「や」の字も出てこない。日本、韓国、アメリカ、キューバ、ドミニカ共和国くらいしか野球としては思いつかない。
自分は、地元のサッカーを観戦したことがない。仕事、趣味の釣りなどで忙しくて見に行く暇のないことも事実だ。しかし、それよりも、若干、あの一律な応援の中に身を置くのが億劫になっていることも事実だ。テレビでもイングランドのプレミアリーグの試合は良く見る。そして、その観衆と日本の応援団としての観衆に大きな違いを見る。イングランドのプレミアリーグのような雰囲気の競技場があれば、きっと見に行くと思う。
何が違うか?日本の競技場は自分のような年寄り、サッカーを見たいと思っている人を寄せ付けない。年代が違うような気がするのだ。「大人の世界」ではないような気がする。
それは選手を見ても感じる。地元の選手は、無精髭・伸びた髪どれを見ても小綺麗ではなく単にだらしがないという感じを受ける。日本の選手で外国に行っている若者がいるが、それらは常に小綺麗にしている。収入が多いからだけではないだろう。そこには外国クラブの統制があり、それに従わなければチームにはいられないという厳しい掟があると思う。
「どんな格好をしても良いではないか。」「人には個性があるのだから」
もっともなご意見である。しかし、個性というものは、基礎的な実力を更に上に押し上げる力にはなっても、基礎力のない者が「個性」を口にしても、それは空しい、空虚である。
サッカーが本当の意味で国民的な存在となるには、まだまだ時間がかかるような気がする。
野球離れが叫ばれているが、野球は戦前から存在し、沢村賞などという記念賞があるくらいだ。野球殿堂もある。
サッカーは未だ日本にとって創生期のスポーツであり、そのためにはもっともっと謙虚である必要がある。J2といいJFLと言っても、子供の集団のような感じさえする。
サッカーはもっと大人にならなければ、国民的スポーツとして定着しないのではないか。創生期の途上であるから、今は、今の乗りで良い。しかし、これからは、選手も毎日髭を剃り、髪を整えるという大人としてのルーティーンワークをしなければならないだろうし、応援団も飛び跳ねてばかりいて試合を理解しない段階を乗り越えなければならない。
こんなくだらないこと、一部のサッカーフリークには腹立たしいことだろう。しかし、サッカーが好きな自分としては、この現状を見過ごすわけにはいかない。
勝ち負けは本当に結果に過ぎない。イタリアでは試合の結果にかかわらず、その試合の選手の評価をする。
本当に良いプレーには喝采を送り、怠けたプレーにはブーイングを浴びせる。そんな競技場になったら、せっせと通いたいと思っているのだが、いつのことだろうか?
平成24年1月 野村