コラム

趣味からの雑感

※ 関東弁護士連合会会報に掲載された拙文を掲載します。

趣味からの雑感
1 はじめに
私の趣味は「釣り」ですが、この極めて私的でマニアックで何ら社会のためにならないものから私なりに得たものを、極めて非体系的にご披露したいなどと奢った気分且つ斜に構えた気持で本稿に取り組んでおります。
2 釣りは自然と向かい合う?
釣りをしていて、これまで一度も「自然」というものを感じたことがありません。外国でそれほど釣りをしたことがありませんので、私の釣りが本当の意味での「FISHING」ではないのかもしれません。
私が釣りをしたことのある日本の釣り場は、どこに行っても、究極するところ、人手にかかった海岸線、河口、河川、湖などがあるだけで、自然のままというものはあるとは思えません。
釣りの対象となっている魚にしてもそうです。釣りの対象となっているニジマス、ブラウントラウト、レイクトラウト、ブルックトラウト、ブラックバス、雷魚(カムルチー、台湾ドジョウ)、これらの全てが外来魚で、食用として人の手により移植されたり、ギャング放流されたものです。
とは言っても、釣り場は自然を残している場所なのだろうとも思えますし、外来魚にしても、そこで繁殖し代を重ねることにより、それなりの自然の一部とはなっているのでしょう。
ここに古代人の「自然」と現代人の「自然」とは大いなる相違があるということが判ります。即ち、人間にとって、「自然」の概念も相対的なのではないかということです。私は、ヴィークルを使って現代人の「自然」の中に入り、工業生産されたツールで釣りをしているのです。究極のところ、釣りは魚を捕りたいという人間の欲求を満たすものに過ぎないと言ったら言い過ぎでしょうか。
3 外来魚が森を枯らす?
琵琶湖には竹生島という小さな神の島があります。針葉樹の森に囲まれた場所には西国三十番札所の宝厳寺がありパワースポットとされています。ところが、平成に入ったころからだと記憶していますが、竹生島の針葉樹が枯れ始めたのです。その原因の一つには最近話題になっている松食い虫の影響もあると思われますが、他方の原因として、おびただしい数の鵜が竹生島に押しかけ、その糞害により松が枯れていることも見逃せないのです。
琵琶湖には元来カイツブリが多数住んでいたのですが、彼らは木には登りません。そして、彼らは体も小さいこともあって、琵琶湖の在来種であるホンモロコに代表されるようなモロコ類など小さな魚を好んで食していました。
ところが、琵琶湖にブラックバスが放流されますと、その繁殖力の強さから瞬く間に数が増え、モロコ類の小さな魚の数が減っていきます。そうすると、カイツブリの餌が少なくなり、モロコ類より大きな雑食性の魚が増殖します。この大きくなった魚は基本的にはカイツブリの口や胃袋には大きすぎます。そこで、登場するのが鵜です。鵜は20㎝或いは30㎝の魚を簡単に丸呑みします。鵜の餌としては、琵琶湖で繁殖し、周囲の川にのぼるアユだけでなく、時にはブラックバスの幼魚が最適です。
そんな訳で、琵琶湖は鵜の格好の住処となりました。彼らの食欲は大変なもので、その数と体の大きさからする糞害が発生し樹木が枯れ出したのです。上野の不忍池の木々も丸裸ではなかったでしょうか。
4 ブラックバスについて
ブラックバスは、大正14年に、赤星鉄馬さんが留学先のアメリカから持ち帰って芦ノ湖に放流したというのがその最初です。しかし、それがオオグチバスなのかコグチバスなのかは知りません。
その動機は、魚のいない芦ノ湖に、釣って良し食べて良しというブラックバスに憑かれてということだそうで、90匹位のバスを政府の協力のもと運び込んだということです。それが現在のバスブームというのですから、先人の力はなかなかのものでしょう(?)
バス釣りも奥の深いもので、それを極めようとしている釣り人或いはツールの生産者がいます。しかし、基本的には結構気軽に楽しめる釣りでもあり、昔から「釣りはフナで始まり、フナで終わる」という喩えを、現代的には若干訂正して子供が釣りに親しむ意味において「釣りはバスで始まり・・」とまでは言えるのではないでしょうか。「・・バスで終わる」という下りのないのがミソです。有名なコピーライターが、バス釣りが持て囃され出したころ、「自分の趣味はバス釣りだ」などと言ってテレビに出ていたのが、何時の日かそんなことは何処吹く風となっていたことを面白く思い出されるからです。そういう私も、嘗てブラックバスの釣りを経験しようと思って、一時期はまったこともあります。しかし、何となくゴミ溜まりの下に隠れている魚を釣ることが若干嫌になりやめました。しかし、フックオンしてからの引きはなかなかのものでした。
5 雀はどこに行く?
最近、都市部で雀の数が減っているとのことです。その最大の理由が、営巣する場所がないということらしいのです。雀は、人間の最も近くにいる鳥類の一つです。鳩やカラスもそうですが、彼らは繁殖力が強いので論外としましょう。
雀が営巣する場所は、屋根の瓦の下とかが多いのですが、最近の建築技術の進歩により雀が軒先から瓦の下に入り込む隙間が全くなくなり、巣を作れないということです。そこで、私は、いわゆる野鳥の巣箱のような形ではなく、天井裏の狭い隙間を再現した巣箱を一応考案し作り、ガレージの屋根の隙間に設置し雀の到来を待ちました。しかし、繁殖期と思われる時期を迎えても全く寄りつくようすはなくとうとう今シーズンは諦めました。
それとともに、昨今、繁殖期に屋根の上で、雀の子を食べているカラスを良く見るようになりました。60年以上生きてきて見たことがなかった光景が、僅か1年の間に3回も見たのですから、その確率は高いと言えるのではないでしょうか。一体どうしたのでしょう。雀が営巣する場所が安全な瓦の下でなく外的から守れない場所しかなくなったからではないでしょうか。それともカラスが賢くなったのでしょうか。
6 終わりに
趣味の釣りからいろいろ述べようとしていたものが、脱線に脱線を重ねて取り留めのない超雑感になってしまいました。
現場で釣りに熱中しているときには何も見えません。ただ、ただ、当日選んだ手段(フライか、ルアーか、餌か、友釣りか)により魚をかけることにしかありません。
しかし、釣りから帰り、日常生活でふと我に返ると様々なことを考えます。
「釣りには車で行ったな。」「寒がりは火を欲しがるな。」「火を使うと空気が変わるな。」「いや、電気なら良いかな?」「電気をどうやって起こすんだ。」「赤ちゃんのオシメは紙だな。」「あれを作るのにどれだけ燃料を使うのかな?」「使い捨てだから結局燃やすよね。」「テーブルを拭くのはティッシュか?あれもゴミ箱から焼却炉だな。」「雀は燃やさないな。」「カラスも」「犬も」「猫も」「魚も」・・・
「雀のルールは変わってきたのかな?」「カラスは?」「魚は?」
そして、進歩の名の許、各自の能力は下がり、何ひとつ自分で作り生活ができなくなったのが人間なのではないでしょうか?
そして、「人間は知らず知らずのうちに、目に見えないものに押し流され、ハッと気付いたときには後戻りのできない事態になっている。」それが人間殊に現在の日本人の運命なのかもしれません。
人類は、ITなるツールを駆使した「対話のない会話」をし、寒ければ石油を焚き、暑ければ化石燃料或いは破局的な危険な燃料により作り出された電気を使って冷やして、それこそ「我が世の春」を謳歌しているのですが、それは長期的に見たとき、誰が考えても滅亡に向かっているものでしょう。しかし、人類は、他の動物にはないもの持っているはずです。動かない意思に支えられた理想というものは人類の宝です。人は、手足を食らうといって蛸を馬鹿にします。しかし、現代の人類は蛸そのものです。ニゴロブナここいらで、ゆっくりと、いろいろな話をしようじゃありませんか。抽象的でも良い、進歩を止めてでも。
釣りに行って、坊主(全く釣れないこと)で帰宅し満足することも貴重なものです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。